78. 妄想劇場4


男は12時間以上眠っていた体を起こした。カーテンを開けると陽が差している。鳴らさなくなって何日も立つ目覚まし時計の針は午前11時45分を指していた。シャワーを浴びるべきだと思ったが、その気力がない。もう2日間も何も食べていない。

なんて汚い部屋なんだろう。

掃除する者はいない。まして自分でなんてとてもできない。それはエベレストに登るか北極へ行くくらい難しいことに思えた。座ってぼんやりして、時計の針を見ると12:20になっていた。

思い切って外へ行ってみようか。

服は着たまま寝ていたので、頑張って一歩歩けば玄関から外へ出られる。ベッドから起き上がった。立ち眩みがして足元がおぼつかないが、なんとか鍵を持って外へ出た。2日ぶりの太陽がまぶしい。

彼は仕事をしていない。いや、2か月前まではしていた。仕事は人より出来る方だった。そのぶん給料も良かった。だがある日、動けなくなった。動けなくなってしばらくすると女も去って行った。

それ以来、彼の時間は止まったままだ。ケータイは叩き壊した。主食はバナナ。10日分を買って冷蔵庫に入れる。9日目には真っ黒になっているのを食べるが、青くても黄色くても黒くてもうまくない。体重はだいぶ減ったと思うが腹は減らない。体重計に乗る気も起らない。毎日、時間ではない時間が過ぎていく。彼にはその時間の感覚が解らないが、解る必要は特になかった。

くそっ。こんなはずじゃなかった。俺の人生はこんなはずじゃなかった。

仕事をしているやつらの姿を見るのが怖い。缶コーヒーでも買おう。マンションのガレージへ。そこに自動販売機がある。ふと、バイクが目に入った。

彼のバイクだ。シートをかけていないので鳩の糞と猫の足跡だらけになっていた。ワインレッドのタンクには猫の足跡が肉球まではっきりわかるくらいに残っている。

天気がいい……。どこかへ行こうか、バイクで。

2日ぶりで外へ出て、干乾びた身体と脳みそで運転したら事故でも起こすかもしれない。でも、そうなったらそれでいい。もうこの世に生きても楽しい事なんてない。ギリギリになると食欲や性欲が出てくると人は言うが、馬鹿げた話だ。食欲なんてない。セックスの仕方は忘れた。ガードレールを突き破って死ぬのも悪くないじゃないか。

部屋へ戻ってヘルメットを取り出した。そして、思いだしてタオルを水に濡らして持って出た。こびりついた鳩の糞をこすり落として猫の足跡をふき取ると、タンクがキラリと光っている。エンジンキーをさしてスイッチを押す、と、同時にスロットルを開けた。1回でかからないと思ったエンジンは軽い乾いた音とともに動き始めた。驚いた。

“バカにしないでよ”

アイドリングが安定するとシートにまたがり、ミラーを調整してペダルを踏んでローに入れた。ガコっと音がしてギヤが入った。

目の前の信号は青。ヘルメットをかぶり直すと、一気に加速して信号を超えた。とりあえず…南へ。海の方へ……。

2回左折したら南行きのバイパスに乗れる。そのままノンストップでバイパスに入った。久しぶりのバイクと久しぶりの外気。60キロしか出ていないが、乾いた冷たい空気が頬にあたって痛い。天気はいいがまだ2月だしな…。

真っ直ぐの2車線のバイパス道路。二輪車は125㏄以上しか通行できない。思い切ってアクセルをあけてみた。一瞬甲高いマフラー音がして、タコメーターが7000を超える。80キロ、シフトアップして100キロ。

オイルが劣化している割にはいうことを聞いてくれる。チェーンの注油もしていなかったのにな…。

100キロを超えるスピードで走り続けたが、彼の望んだ幸運な事故は起こりそうになく、後ろからパトカーに追われることもなかった。風切り音のなか、ヘルメットが飛んでいきそうになりながら走り続けた。なおもスロットルをあけると、両腕に伝わる振動が激しくなる。

“どう? なかなかやるでしょう?”

ああ、気持ちいいかも。途中のサービスエリアに入ってエンジンを切った。

そう、コーヒー飲みたかった。昔は毎朝コーヒーを飲んでいた。自販機で缶コーヒーを買ってプルタブを開ける。彼はタバコを吸わないのでコーヒーを飲むだけだ。煙草の代わりにポケットから100円玉を取り出して、そばの公衆電話の受話器を取った。

受話器を取って、番号を思い出そうとした。たしか090-××××-××××だったはずだ。硬貨を入れてプッシュボタンを押した。だが途中でやめた。もし間違って他の人にかかったら気まずいというのもあったし、なぜ今更電話するんだという気持ちになったから。

残ったコーヒーを飲み干すと、バイクへ戻った。光を浴びてワインレッドのタンクが光っている。

“アタシじゃダメなの?”

こいつと出会ったのは3年前。スマートなフォルムと剥き出しになった空冷エンジンの音、アルミでもカーボンでもないスチールのマフラー。どれもお気に入りだった。そして何より、このワインレッドに魅かれた。赤いバイクは沢山あったが、ワインレッドはこいつだけだった。どうしてもワインレッドがいい。一目ぼれで買った。

以来、何度もツーリングに行った。街乗りもした。よく声を掛けられた。「カッコいいバイクですね」。ガソリンスタンドで、旅先で。「何CCですか?」。バイク乗りに言われる。「やっぱり空冷がいいの?」「いい音してるね」。高校生に囲まれていたときもあった。「ちょーかっこええ。オレもこーゆーの欲しい」。

ピカピカに磨いたエンジン回りと銀色のマフラー、そして何よりタンクのワインレッドは確かに周りの目を引く美しさだった。買った当初は月に2回も3回も磨いていた。排気量の割には重かったが、テクニックさえあれば十分に乗りこなすことが出来た。重いくせに見た目はどんなバイクよりスマートで美しく見えた。

時計は13:50を指していた。再びエンジンをかけると良い音が響いた。高速走行の高回転で熱くなったエンジンは、快調な音を立てている。

“今日はアタシでいいじゃない”

バイパスをあと20キロ走れば海が見える。なんども走ったことがある道。走り続けると、いつも電車の中で見ていたビルの時計が見えてきた。現在の温度と時刻が交互に表示されるデジタルのパネルに自然と目が行く。違った角度から見たそれは、相変わらず時刻と温度を光らせていた。あの時と違うのは、目に入っている時間が短かったぐらいだ。

スピードメーターは120キロを指している。2車線のバイパスに車はほとんどなく、真っ直ぐな道は遠近感がつかめず、スピード感覚がなくなる。

やがて大きくて白い鉄塔が見えてきた。走っていると鉄塔は2つに見えたり重なって1つに見えたりする。そしてそれは白い大きな斜張橋となって、目の前いっぱいに広がってきた。

ゆるい上り坂になった白い橋の上を走って、頂点近くまで来たとき、右手側に海が見えた。キラキラ光っている。ところどころ白い波が立っている。ずっとむこうまで見渡せる。

橋が終わって防砂林と建物で海は見えなくなったが、潮の匂いは続いていた。海を触りたい。次に見えたバイパスの出口で迷わず下りた。信号を3つくらいやり過ごして右折してみた。

細い道はところどころ砂が散っている。滑らないようゆっくり走らせる。十字路を2つ過ぎた先は海だった。防波堤があり、その前面が駐車場になっている。夏になるとサーファーが来るのだろうが、この季節に車はほとんど停まっていない。堤防の一部が切れており、下に続く階段が伸びている。堤防のすぐ脇にバイクを停めてローギアのままエンジンキーを回して抜いた。タンクがキラリと光った。

“行ってらっしゃい”

ふらつく足で、砂に足を取られながら海まで、海が触れるところを目指した。ブーツに砂が入ってくるが、気にならなかった。人はいない。遠くに投げ釣りかなにかをしている帽子のおっさんと、カップルのような二人組。静かで、波の音、風の音しかしない。風は海特有の強いものだったが、長いこと風を切って走っていたので静かに思えた。彼はずっと歩いて波打ち際までたどり着いた。白く泡立ってキラキラ光る波、触りたい。手を伸ばすが届かない。いそいでブーツを脱いで靴下を脱いで、ジーンズを膝まであげた。

よし……。前に進む。濡れた砂の感覚が冷たく、でも次の瞬間波が来て足全体が冷たくなった。足の下の小さな砂を波が沖へと運んでいく。何とも言えない感覚。それを何回か味わったあと、海面に手を付けて、そして濡れた指を舐めた。潮の味がした。両手を付けてパシャパシャした。かがんだ時に波が来てジーンズを濡らした。

海から出ると砂浜に座ってみた。次に寝転んでみた。空を見る。サングラスを外したりつけたり。

海での遊びに満足すると、裸足で砂浜を堤防まで歩いた。濡れた足に砂が付く。でも気持ちいい。俺のバイクが見える。堤防に隠れてタンクとハンドルとミラーしか見えないけど、ここから良く見える。ミラーが太陽を反射してキラッと光る。歩いて堤防の階段を上がり、そして言った。

「ただいま」

会話をしたのは何日ぶりだろう。いや、会話じゃないか、独り言だ。彼は苦笑した。

まだ日が沈むには、時間がある。向こうに見えるコンビニまで行くことにした。濡れたジーンズと裸足のままでコンビニに入るのは少し気が引けたが、きっと夏はこんな格好の客ばっかりだから大丈夫だろうと一人で納得して自動ドアをくぐった。

バナナを売っているのが目に入ったが、彼はホットドックとコーラを買った。レジへ行くとオバちゃんが話しかけてきた。

「寒いのにサーフィン? じゃなさそうね」

やはり裸足で入ったのが気になっているようだ。裸足に革ジャン。答えに困って「いえ…」としか言えなかった。

会話はこれ以上続かなかったが、袋を受け取り「ありがとう…デートです」と自然と笑った。オバちゃんはにっこりしてくれた。

堤防の上に乗って、歩いて戻った。アスファルトの上を歩くのは足が痛い。でも堤防の上もさほど変わらなかった。

コンビニの袋をミラーにひっかけると、濡れたジーンズを脱いで、そして濡れている部分を熱いエンジンに当たるように、シートにそっと乗せた。キンっと冷やされた鉄の音がした。

ホットドックを出すと堤防に座って海を見ながら食べた。半分食べると喉が渇いた。コーラを取りに堤防をおり、そして、ワインレッドのキラキラ光るタンクに顔を近づけ顔を当てた。

“ずっと一緒にいてね”

ほのかにガソリンの匂いがした。





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