70. 妄想劇場3


その日、いつものように部長に誘われた。

「おーい杉原! 今日行くから。来るやろ?」

大学を卒業して従業員48人のこの会社に勤めるようになって3カ月。仕事は教えてくれないくせに、上司には週2のペースで飲みに誘われる。お金はいつも出してもらえるのだが、まったくもって面白くない。今日は定時きっかりに帰ってゆっくりしたい。しかし、誘われたら22時を覚悟しなければならない。

18時。部長の「いくぞ!」の号令の下、男性社員4名は、弊社オフィスの入っているビルを出て外へ。

「そこで串カツ食って、それから駅前まで行くから」

本格的に飲む前に腹ごしらえがてら軽く飲む、という前座みたいなのがあるのだ。だったら1軒目は吉野屋でいいのではないかと思うのだが、このへんの感覚はさっぱりわからない。これがどうもサラリーマンの流儀らしい。

串カツ屋では「自分は今日は飲まないので」と言ったが、その訴えは完全スルーされてピンク色のチューハイが目の前に置かれた。しかたなく飲み干す。辛気臭く飲んでいたら「景気よく飲めよ」と言われるから。これもサラリーマンのルールらしい。下らない。こいつら酒を味わうのではなく酒に酔いたいだけだろ。いわばただのストレス発散なのだ。

1時間足らずで2軒目へ行くことになった。次の店は駅前繁華街の雑居ビルの5階にあるスナックだった。ここは初めて来る店。

まだ夜も早い店内には、50代と思しきサラリーマン風のスーツのおっさんがカウンターに一人座っていたが、騒がしい弊社集団が来たのを見て、そそくさと帰り支度を始めた。

「……いいのよ、また来てくれたときで、今来たばっかりじゃない。いいから」

ママと思われる女とおっさんの間で、5000円札の受け取りの応酬があったが、すぐに決着がついておっさんはカバンをもって店を出て行った。

「あらー、お久しぶりですう」

先客を見送ったママが、今度は急いで弊社への接待モードを作り始める。ママのほかに女がまだ出勤していないのか、あるいは女が不足しているのか。まぁどっちでもいいけど。

入社してこの3カ月、弊社の上司達のストレス発散方法が終業後の飲みだとわかるのに時間はかからなかった。社畜サラリーマンって下らない人生だと思う。彼らだってそれをわかっているはずだ。だからこそ同じレベルの人間同士で群れて酒を飲んで傷の舐め合いがしたいのだ。

部長は海外経験もあるし、話せば客あしらいも上手、だから少しは尊敬している。いや、本当は尊敬に値するのだろうが、この「飲み」に差し引かれてしまって少しになっているのだ。後ろの2名は下らない毎日をいかに手を抜いて金だけもらうかという発想で会社に来ているゴミみたいな人たちだ。もちろん自覚があるようで、宝くじが当たったらすぐに辞めるというのが口癖。一生当たらないから一生社畜だと思う。

そして。群れる人間がいないサラリーマンは一人でスナックへ行ってホステスに傷を舐めてもらうわけだ。さっき5000円札1枚を対価に傷を舐めてもらおうとしていたおっさんのように。

やれやれ。

サラリーマンは弊社でも貴社でも同じようだ。いったい何が楽しいのだろう。居心地悪くソファの隅に座っていると、ママが近寄ってきて灰皿を変えながらそっと独り言のようにオレの耳元で呟いた。

「ごめんね、がまんしてね」

確かにそう言われた気がする。でも言われている意味を理解することが出来なかった。何言ってんだこいつは。香水臭いし。

やがて始まった、カラオケ、手拍子、水割り。永遠と続くように思われる宴。

歌を勧められても固辞するオレは社会人失格なのかもしれない。カラオケは出来ない。そして焼酎の水割りという酒は驚くほど臭くてまずい。

ママはポラロイドを撮って、クラッカーを炸裂させ、紙テープを投げて盛り上げる。バカバカしい。これじゃ子供の誕生日会じゃないか。これが楽しいと思える上司たちと、この店のママはどうかしている。精神年齢が低すぎる。もちろんそんなことは言えないし顔にも出せないけれど。

「おい、杉原! ママとアドレス交換しろ。女の修行や!」

ソファに座ってぼやっとしていると、部長から矛先を向けられた。やれやれと思いながら薄ら笑いをしているとママがすかさず乗ってくる。

「あらあー、こんな男前だったらいつでもデートしちゃいますよお。お名前はなんておっしゃるんですかあ?」

さすがに返しが上手い。下らんストレス発散祭りを手助けするこのママも大概だ。こんなおべんちゃらが楽しいのは柵から出られない社畜サラリーマンだけだろうよ。カラオケするよりクラブ行くほうがいい。ピーナツで不味い焼酎飲むより鳥貴族で飲み食いする方が何倍も理にかなっている。でも、これが大多数の日本の大人たちの姿なのだ。オレは仲間になりたくない。なんて自我の無い軟弱な人たちだろう。

「こいつの名前はスギハラな」

黙っていたら代わりに部長が答えた。

オレは携帯を出してママのと合わせ、そこに赤外線で送られてきた名前は「青山慶子」とあった。漫画みたいな名前だと思った。

そんなやり取りをみて、上司たちはお気に召したのか大いに飲み、そしてオレも飲まされて、気が付けばトイレにいた。トイレで盛大に吐いた。

「ねえ、もう帰らせてあげたほうがいいんじゃないですか? 彼の顔、真っ青ですよぉ?」「杉原は酒の修行が足りんなあ」「おーい、杉原君、大丈夫かあ」「水を飲んだら治るだろ。ママお水」

トイレから出てきたが目の前が真っ暗。周りの騒がしい声だけが聞こえる。くそったれ畜生どもめ。オレはお前らのストレス発散のおもちゃじゃねえぞ。

両脇を抱えられエレベーターを降りると、ロータリーのタクシーが呼ばれたようで目の前に後部座席のドアが開いている。

「大丈夫? 一人で帰れる?」「大丈夫、こいつはライダーだから。いつも一人で夜の道を走ってるんだ」「そうそう、杉原君は孤独なライダーだから一人で帰れる」「3人でもう1軒だけ行きますか?」

馬鹿みたいな会話が聞こえ、バタンというタクシーのドアの締まる音とともに静かになった。死ね。


翌日。

出勤の電車内でメールを送った。もちろん送信先は上司ではない。彼らとは朝礼で顔合わせるんだから。顔を合わせても「昨日は~」なんて会話はない。そんな気を使う必要はないということは3カ月働いてわかった。昨日のことも先週の事も同じ。そして今日も明日も同じ。そんな毎日を送る人々なんだ。安心安全安定の毎日を。

送信先は青山慶子。ママだ。トイレを汚してしまったのが申し訳なかったから。

『昨日トイレで吐いた男です、すいません』

送信するときに思いついて画像を付けた。このほうが重たい謝罪メールに見えなくていいだろう。バイクの画像と一緒に送信した。


その日の仕事は17:30に終わった。まったくもって退屈な会社。終業時刻が早いのが苦痛だ。残業しているほうがいいのだが弊社には残業はない。飲みに誘われないようにさっさと退散した。

帰りの電車で携帯を見るとメールが。青山慶子とある。

『無事に帰れた?トイレ掃除大変だった。おわびにデートしてね。こんどの日曜日、駅のロータリーに朝の11時。必ずバイクで来ること!』

何だよこれ。社交辞令の謝罪に対して普通こんな内容の返信を送るか? 飲み屋の女だったらもう少し柔らかい内容にしろよ。客商売舐めてんのか?

返信はしなかった。だってこれは上司とこの女が一緒になって仕組んだドッキリだと思うから。


翌日。

朝礼。部長は直行で韓国出張に行っていたので課長が代行した。来週まで帰ってこないらしい。よし、少なくとも部長帰国までは飲みに誘われることはないな。と安堵したが、 いや、まてよ。と思った。昨日のクソアマからのメールは? 課長と主任は単独でそんなドッキリなんてするキャラじゃない。それによく考えたら会社が休みの日曜にって絶対にありえない。

うーむ、謎だ。

モヤモヤしながら業務をこなし、帰宅した。飲みがない日は幸せだ。


翌日。

ホワイト企業の弊社は土日が必ず休みになる。では今日、週末金曜日は忙しいのかと言えばそんなことはない。みんないつにもまして早く帰る。もちろんオレも。

「お先に失礼します」

帰りの電車でケータイを見る。やはりあのアマからのメールは気になる。てか明後日だし。今日さりげなく上司の動向をチラ見したが、別段おかしなところはなく、何か企まれている様子でもなかったし。バイクで来いってもしかして後ろに乗せてって事かね。メットもう1個持っていくべきか。いやめんどくせえ。タンデムシートに憧れるような年でもないだろうよ、あのおばさん。軟弱な夜の女がいきなり後ろには乗れないって。風圧と遠心力で吹っ飛んでまうわ。バイクに憧れてるだけの奴はわかってないんだよなあ。


翌日。

予定は特にない。明日は…、11時に約束があると言えばある。あのアマにメールするタイミングとしては、今日は理想だ。「明日の確認」的な内容で送れる。そうすれば自然だ。メールしてみようか迷ったが、やめておいた。デートに備えて準備していると思われるのは嫌だった。万が一にも、「飲み屋の女に靡いている男」と勘違いされたくない。行くのならあくまで、ビジネスライクにいきたい。


日曜日。晴れ。

外へ出てジャケットを着ると駐輪場でエンジンを始動。カワサキZRX400。ライムグリーン。通称ローソン。国道をまっすぐ走り、大通りを左折、駅ロータリーへ向かった。11時ちょうどにつくように調整しながら。早くついて待っていたと思われるのも嫌だし、かといって少し遅れていくのも不味いように思える。

果たして本当にいるかどうか。

駅前であたりをうかがう。上司は絶対にいない。社畜の彼らは会社から離れられる貴重な日曜日を、わざわざ会社の同僚と一緒に遊んだりする人たちではない。だから罠の可能性はない。はずだ。

ロータリーの向こう側に1台のバイクが停まっている。ZRXじゃん。あれ? 手を振っている。青山慶子だった。

マジか…。

「おはよう。やっぱり来てくれたね」

あーあの、すいません、返事しなくて、とか何とか言ったが、動揺しているのが自分でもわかった。何にって? 半分は本当にいた目の前の青山慶子。もう半分は、目の前のカワサキZRX1200、ライムグリーンにだ。

「まあ、君は真面目だから来るのわかってたよ。でも恥ずかしがり屋だから返事はしないのよねえ」

えあー、すいません…。なんか凄いですね、予知能力者ですか……。なんてとっさに出た、我ながら気の利かない言い訳。

「これでもいちおうお客様のお相手するのが仕事ですから。空気と脳内読むのはプロなのね。これあたしのバイク。びっくりしたでしょう? 色まで一緒。でも排気量はあたしの勝ち」

自分の物より一回り大きいZRX。大型免許のない自分には乗ることが出来ない排気量。エキパイはチタン、ビートのカーボンマフラー、社外品のオイルクーラーが付いている。ライダーだったのか。しかもカワサキ。しかもリッター車。しかもこのカスタム。

「きょうは! スカイラインへ走りに行くから。OK?」

へ? はあ、

「レッツゴー」

信号スタートのたびに離される。スピード違反ではないのか…。ノンストップでスカイラインへ。先をいったバイクは峠への分岐で停まっていた。

「おそーーーい」

おい、いや、ちょっとペース…

「スカイライン攻めるよ。あたしが勝つけど。ゴールは、お寺の門のところね。いい!?無茶したらダメだよ。安全運転だからね!」

いや、どっちがだよ…

「いくよ!」

オレだって峠は得意だけど。走りこんで鍛えたんだぜええ!

スロットルをまわして後を追いかける。コーナー先を見て左に車体を傾ける。若干の上り勾配がある路面にグリップを感じつつ出口から回転数を上げていくのが気持ちいい。オートマでは味わえないエンジンとギアの働きが体に伝わってくる。これらの働きは一瞬の自分の判断と操作で大きく違う結果をもたらす。何回かコーナーをやり過ごすうちに、無意識に息を止めていて直線になってそれに気づく。メットの風切音とエンジンの音。すべてが快感。

自然と笑いが込み上げてきて、速度を落としてからバイザーを上げて大きく息を吸った。梅雨の合間の山は蒸れた匂いがする。

やがて道が少し太くなり寺が見えてきた。すでに着いていたグリーンのバイクの横に並べて停まった。

寺の山門は静かだった。峠を走って気圧で耳がおかしい。

「あー、気持ち良かったねー。最高」

うん。やっぱりバイクで走ることは気持ちいい。この爽快感、このスリル、たしかに最高。他では絶対に味わえない。

「おなかすいてない? 朝ごはん食べた? もう昼過ぎだけどさ」

タンデムシートのネットを外して包みが取り出された。

「食べて。おにぎりだけど」

本当にバカでかいおにぎりとペットボトルのお茶が出てきた。

寺の石段に座って、結構乗るんですか? バイク。全然イメージとちゃいますね、と聞いてみる。

「休みの日はだいたいね。あの仕事はストレスたまるし。仕事だから仕方ないけど。自分の店が欲しかったから独立したんだけど大変だね。いろいろ」

一人でお店を? 結婚は…? とうっかり聞いてしまった。

「…君とだったら付き合ってもいいかな」

そう言うが早いか何気に接近される。いや店じゃねーし。しかしライダーとしては実に悪くないファッションだ。SchottのシングルライダースにLeeのデニム。今日は香水臭くなくて本革のいい匂いもする。胸けっこうデカいしレザージャケットがパツってる。

「また、考えちゃってかわいいねえ~」

うむ、完全におちょくられてるぞ。

「君は観察眼があって動じなくて我慢強いからセールスマン向きだね。でももう少し喋った方がいいね。まわりの人は君が心で何を考えてるのか解らないと思うよ」

はあ、そうですか。

山の天気は変わりやすい。湿っぽい空気になって霧か雲かが沸いてきて、いまにも雨が降ってきそうな気配。雨が降りそう、どちらともなく空を見上げる。

「多分降ったら止まないよ。天気予報雨だったし」

「あたし雨の中を走るの好き。体の奥までびしょ濡れになるのが」

その感覚は、なんとなくわかる。オレも。というか車に乗らないライダーはみんなそうだと思う。走りながらイヤャッホーって叫びたくなる。

「もうじき降ってくると思うから帰ろ。まっすぐ家に帰るよ。雨の下りはエンジンブレーキね。調子に乗るとスリップするからね。じゃあ無事に帰ったらメールちょうだいね」

いいながら準備。エンジン始動。

峠の下りはあんまり得意じゃない。ヘルメットに小さい雨粒が付き始めた。手で拭っている間に前を行くはずのバイクはもう見えない。

山道から市街地に入り、駅の脇を通り過ぎ、そのまま家へ。本降りになる前に滑り込みで駐輪場にバイクをぶち込んだ。ぎりセーフ。

部屋に入った途端に大粒の雨が落ちてきた。

家に付いたらメール。だったな。

『無事帰宅』

1分後。メールが返ってきた。

『またストレスたまったら連絡ちょうだい。峠で発散しましょう!』






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