神崎新地を捜査せよ

2009年10月×日、長官より緊急指令が下りた

指令:神崎新地を調べろ

早速、捜査官が現場へゆっくり急行した。
なお、以下のファイルはすべてノンフィクションであることに留意されたい


かつて、神崎新地という「ちょんの間地帯」が兵庫県の尼崎市にあり、1995年に滅亡したという。いまでは、その名前がリフレッシャーの間で話題になることはなく、上級リフレッシャーの間でもその存在を知っている人は少ない。

95年といえば阪神大震災の年だ。神崎新地も震災を境に壊滅したとされている。ちょんのまが駆逐作戦ではなく地震で壊滅するというところが珍しいが、阪神大震災とはそれほど凄まじい地震だったのだ。私の住んでいたところでも震度5を観測し、その日の夕刊一面に大写しになった阪神高速3号線が倒壊した有様を見て、ガキんちょながら「これはただ事ではない・・」と思った。ちなみにその頃の私はまだ童貞で、本屋に並んだエロ本の表紙を見ただけで勃起するほどピュアだった。


その後、私は年を重ねてリフレッシャーとなり、膣とクリトリスの位置も解り、アナル童貞も捨て、風俗嬢と恋愛し、ババアに襲われ、性病にも侵され、男にも犯され、日本一周風俗の旅も実現して、最果ての地でのおちんちんの挿入も済ませ、上級リフレッシャーの仲間入りを果たすことになったが、神崎新地の存在なんて全く知らなかった。いつだったか、この塔の掲示板にそんな話が書き込まれて初めて知ることになった。また、「神崎新地に、たちんぼが出没する」というタレコミが何回か来たこともあった。



神崎新地は、今はどうなっているのだろう。跡地が残っているのだろうか。もしかしたら立ちんぼが現れたりするのだろうか。気になったので行ってみることにした。


自動二輪を走らせることしばらく、「神崎」という標識が見えてきた。このあたりだな。




神崎新地には「トノウチ新地」という別名もあるようだ。「トノウチ」というのは地名である。漢字で書くと戸の内となる。でも「神崎」も地名だ。地図で見ると、神崎は川の西側、戸の内は川の中洲にある。たぶん「戸の内」というのはマイナーすぎるので、ちょっとは知名度のある「神崎」という地名が使われていたのだろうと推測する。で、問題の神崎新地は川の中州、戸の内のほうにあったとされる。



とりあえず中洲を目指して単車を走らせる。川があって橋があるところまでいかないと渡れない。猪名川と藻川と神崎川と、川が何本もあり、その川も曲がって流れ、途中で合流しているので、油断すると方向感覚を失う。方向感覚を失ったときは、やみくもに移動してはいけない。まず現在地の確認だ。ランドマークを目印にするといい。ここは、グリーンのネットを張ったゴルフセンターを指標にすると、方向をロックできる。でも、ナビがあればいいんですけどね。便利な世の中ですねえ。昔はGPSが高価で、しかもGPS座標を自分で入力したり面倒だったんですが、進化しましたね。



道はきれいに整備されている。この橋を越えればトノウチ地区に入るようだ。




入り組んだ路地を走りつづけると・・あ、これかな・・・。それっぽい建物があった。町工場になってるって感じですね。





立ちんぼが現れないか待ってみたが、そんな気配はなかった。チンコレーダーも反応しなかった。



帰って調べてみた。神崎新地とは何だったのか。その由来は?その内容は?

体験談的なものがないか調べてみたが、ネット上には殆ど見当たらなかった。だが、神崎新地が阪神大震災前までは営業していたことは、断片的な情報ながらも間違いなく、そして震災後は立ちんぼが出没するとかいう噂も掲示板などで確認することができた。

同時に、神崎新地=危ない土地とされていたようでもある。何が危ないというと、マイノリティの土地だったとか。調べているうちに、『神崎遊郭』という単語もよく目に入ってくる。神崎遊郭というのと神崎新地が同一のものを指すのかは分からない。神崎遊郭は、神崎新地とはたぶん別物だと思う。新地は「新地」っていうだけあって、近代に新しく郊外に売春地帯を作ったんじゃないか。だが、同一のものとして扱っている雑誌などもある。ううむ、謎が深まる。



興味がわいたのでさらに詳しく調べることにした。

尼崎市史や過去の新聞記事、ムック本の記事を読みあさると、なんとなく正体が見えてきた。神崎新地は、戦後に開かれた赤線で、赤線時代を過ぎてからは、飛田や松島と同じように神崎新地として商売していたようだ。そして震災を契機に壊滅してしまったというのは事実のようである。一方、神崎遊郭というのは、平安時代からあった遊廓で、ネットでしらべたら解説が結構出てくる。神崎遊郭の時代のものかは定かではないが、近くには遊女塚というものがあり、これは遊女を祭った塚らしい。

尼崎市のHPに、当時の神崎を表す説明文がある。 http://www.city.amagasaki.hyogo.jp/history/022gensi.html

『猪名川・神崎川河口の繁栄』という部分に、同時に遊女の集う天下第一の歓楽の地としても知られていました。とある。


また、wikipediaにもそのような説明がある。

平安時代後期には、河口部の神崎の港は海上・河川の物資積み替えや、京から西日本各地の荘園や住吉大社詣でに向かう貴族や庶民で賑わった。また、神崎と江口はともに遊女の集う天下第一の歓楽の地として並び立ち全国に知られた。神崎や江口の遊女たちはきらびやかな衣装をまとい貴族たちに寵愛されたものの、彼女たちは戦乱や重税で疲弊した各地の荘園などから流れてきた者たちであり、彼女らの歌謡や和歌、彼女らを弔った塚(遊女塚)や、彼女たちと僧侶たちの逸話などが残されている。神崎 (尼崎市). (2008, 11月 9). Wikipedia, . Retrieved 05:47, 6月 5, 2010 from http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%A5%9E%E5%B4%8E_(%E5%B0%BC%E5%B4%8E%E5%B8%82)&oldid=22810293.

ふうむ、神崎遊郭というのも実在したわけだ。こいつは一体何なんだ。その始まりが知りたい。

さらに神崎遊郭を調べる。だが、遊女はいたが遊廓があったという資料は確認できなかった。

どうやら神崎の場合は、いわゆる「くるわのなかに売春施設があった(=遊郭)」ということではなく(そもそも平安時代や室町時代に遊郭と呼ぶべきものは存在しない)、船から船へと移ってセックスをするのが神崎の遊女遊びの姿であったと推測される。水運の町らしく、行きかう船にたいして同じく船から誘ったりしたらしい。

法然上人絵伝

昔はこんな業態があったんですね。渡鹿野なんかはこれの名残といわれますね・・。

えー、さて、考えるのはこれくらいにして、あとは遊廓研究家に任せよう。
このへんで無理やりまとめる

■大阪平野の河口付近で、3つの川が交わる地点があり、弥生時代から近辺に人が住んでいた

■その地点は以後「神崎」と呼ばれ、平安時代くらいから、水運の町として栄え始めた。 また、繁栄を目当てに遊女が集う場所でもあった。遊女記(大江匡房)に「天下第一の歓楽地」とある。

■鎌倉時代末期になると、神崎より下流(南)に、尼崎や大物などの新たな港が出来、神崎は衰退していった

■神崎は衰退したが、神崎近辺(淀川河口一帯)の各港は、引き続き(遊女の需要もある町として)栄える。鎌倉時代には法然上人の法話を聞いた遊女5人が神崎川に身を投げたとか。のち江戸時代(元禄5年・1692年)には遊女塚が作られた

■昭和時代、終戦後に尼崎の駅前(出屋敷・杭瀬・尼崎あたりの阪神沿線か?)に青線が出来、風紀上良くないとされた。(この生き残りが、かんなみ新地と思われる)

■そのため、昭和30年くらいに青線を移転させることになり、初島新地と神崎新地が開設された。神崎新地がおかれた土地は、トノウチという地名で、沖縄移民が多く住む土地だった

■昭和33年、売防法が施行される。(尼崎市史 S33年3月23日 - 売春防止法の実施を前に神崎(戸ノ内)と初島の両新地が解散した。 とある)神崎・初島新地は、料亭・旅館として存続を図る

■初島新地は昭和43年あたりに壊滅したが、神崎新地は壊滅せずに営業を続けた。

■平成7年に阪神大震災で被害を受け、その後、復活することはなかった

■今でも、神社や旅館風の建物など、僅かにその名残がある。平安時代の遊女や遊女塚などの売春系の歴史や史跡が近辺に残っているので、神崎新地もその同類として捉えられる傾向がある


地図で位置関係を追うと、このようになる。

>>地図を表示


後日、再び神崎新地跡へ行ってみることにした。遊女塚も初島新地跡も見に行ってみたい。


まずは初島。国道2号線から大物線を南に入る。阪神尼崎駅の近く。尼崎の本サロやかんなみ新地からそんなに離れていない。 工場ばっかりで、新地があった雰囲気はまったくない。尼ドラがある。尼ドラって自ら宣言するところが尼崎ですねえ・・(笑。





続いて、神崎新地へ向かう

沖縄移民の土地だったということで、沖縄の店がある。その近くに893や右翼団体の事務所がある。




町のはずれにお稲荷さんがあった。神崎新地と書かれている。神社のいわれはわからない。 でも神崎新地と書かれていて稲荷神社だから、新地の繁栄を願って作られた稲荷かなにかか・・。知ってる人いたら教えてください。





モスリン橋。これを越えれば神崎新地になるってか・・・。全開の訪問では北側から入ったのだが、このモスリン橋は南側にかかっている橋だ。

モスリン橋のたもとに交番がある。交番の名前はモスリン交番




こんな記事があった。これは私が新聞から引用したものではなく、ある人が新聞を調べてWEBにアップしたものだ。転載させてもらった。

産業経済新聞 大阪版 昭和31年(1956年)3月29日 木曜日 4版 3面 救い 求め 派出所へ 尼崎で また 籠の 鳥 3名

 29日 午前 2時ごろ 尼崎北署 モスリン派出所へ 3人の 女性が “同市 戸ノ内 神崎新地、特飲街に だまされて きた” と 助けを 求めて きた 福岡県 宗像郡 A子さん(21歳) =特飲店 清水(仮名)女給=、同 B子さん(25歳)=特飲店 門松(仮名)女給=、 北海道 函館市 C子さん(26歳)=特飲店 華美(仮名)女給=の 3人で A子さんと B子さんは さる 11日 同県 遠賀郡 瓦谷 イネ(58歳)(仮名)から 大阪に いい 職が ある。 と 紹介されて 上阪、月 3500円で 女中契約を 結んだ ところ 客を とれ。 と いわれ、また C子さんは 去月 16日 湯ノ川駅で 1日 千円の 仕事が ある。 と だまされ、特飲店に 売られて 来た もの。


モスリンというウルトラマンの怪獣みたいな名前は、モスリン紡績株式会社というのが中洲にあって、それが業務用に作った橋だからモスリン橋と呼ぶ。工場はもうないけど、橋を寄付したらしい。すごいね。モスリンてのは毛糸の織物のことで、フランス語。


プレイの内容については、ここを歩いたところで解ることではない。ただ、路上で婆と交渉して近くの旅館に入り、置屋から女を派遣するという、ちょんのまというよりは一発屋に近い内容だったようである。また、壊滅後にモスリン橋の端に立ちんぼがいたとか。遊んだことがある人がいたら、ぜひ内容を教えてもらいたい。


さて、次に神崎川を渡って対岸へ行くことにした。このへんに遊女塚があるはずだ。

関西ペイントの近くだということだが・・・関ペの外壁をぐるっと回って西門近くにやってくる。そのとき、バス停にまんまな文字を発見。




近くの地図で調べると、どうやら公園の中にあるようだ。歩いて行ってみる。あった。ここだ。







日本国においては昭和33年まで売春は囲いの中では国家公認であり、この事実は売春肯定派が勢い付く要素の1つであるのだが、 鎌倉時代の倫理観では春を売ることは恥ずべきことであるとの認識があったわけだ。もちろん遊女塚伝承は江戸時代の創作という可能性もあるが。それにしても死ぬこともないだろうに。ちょっとセックスしただけなんだから。法然上人も罪な人だ。





今は工場が並ぶこの川の合流点―神崎が、再び女とリフレッシャーでにぎわう日は来るのだろうか。それは望まれていることなのか、それとも望まれていないことなのか。800年経た今に語り継がれるリフレッシュの残像は何を訴えているのか。






捜査報告書:オチはない



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