もっとマニアなあいつ

このフロアは、何の因果か知らないが、京の都から大坂の遊郭の直ぐ傍に島流しの身となった捜査官の転んでも唯では起きない、チャーリーシーンよりトムクルーズとでもいうか、どっちがシャブっているのかどっちもなのか・・・ああああ・・・・




今回は、西の横綱と称される「飛田新地」についてマニアってみよう。
『歴史の話はどうでもいい。わしゃチンコを入れたいんじゃ!』というチンコでっかちな人は、こちらのフロアを参照されたい。

名称:飛田新地 とびたしんち
所在地:大阪市西成区山王
地図:クリック





成立

成立は1918年(大正5年)、開業は1920年(大正7年)
明治末の火災で焼失した「曽根崎新地」(明治42年焼失)・「難波新地」(明治45年焼失)の貸座敷業者を救済する−いわゆる遊郭整理。曽根崎・難波新地は焼失後免許地廃止となる−という名目の元に許可された。実際には救済が必要な業者は居なかったとされ、一部の権利者が利益を貪るためであったと推測される。直後、時価が高騰したことからも、本当の目的は一部の人間の利益だったのであろう。でもまぁこれは、現在でも同じで、何時の時代も役所への許可申請ごとは大義名分が最も重要とされますからね。

ちなみに飛田という名称は、この地域の俗称であり、それがそのまま「飛田新地」の名称となった。本来ここら一帯の正式な住所は西成区山王〜天下茶屋東である。余談だが、天下茶屋の由縁は、太閤さん(豊臣秀吉)が大阪城から堺方面へ出かけた際に茶を飲んで一服した場所だから・・。今じゃ天下のての字も無い下衆な町ですがね。





反対運動

当時の飛田は、難波の繁華街から2キロほど離れた、何も無い草むらであったと記録されている。にもかかわらず、遊郭設立当初は大掛かりな反対運動もあったようだ。大阪朝日新聞・大阪毎日新聞というメディアの協力を得て、反対運動は拡大。1916年(T5)4月26日には、林歌子を代表とすると大阪矯風会が、大隈重信総理大臣・高田早苗文部大臣を訪問し、飛田遊郭設置取り消しを求めている。1年半に及ぶ反対運動は、天皇直訴の最終手段まで検討されたとされる。時の大阪知府事、大久保は反対運動に追い込まれ、飛田遊郭指定地の建設を許可すると同時に辞職。絶対、黒い金を貰ったんだろうなあ・・。建設許可だけ与えて辞職するのもある意味男らしいが・・。(注:黒い金は私の勝手な想像です)。1915(T6)年10月13日に工事が開始され、1918(T7)年完成となる。

*これら一連の反対運動は『売娼の社会史』吉見周子著が詳しい。残念ながら黒い金うんぬんの話は出てこない(笑





最盛期

完成年度の1920年(T7年)には100軒あまり、昭和初期に200軒の芸楼が並ぶようになった。当時の様子を「大阪歓楽街史」は、

『大門からずっと両側に、所請大青楼が並びその1つ裏手が中青楼、その亦1つ裏手が小青楼と数百の青楼が軒を並べ、真に不夜城たる観を呈した』

と伝えている。青楼とは中国でも通じる言葉で、遊郭の別称である。

このへんの言葉使いは挙げるとキリがないので曖昧にしておく。なんせ、遊郭の別称だけで30近くあるのだから・・。ペニスのことをチンポといったりチンコといったり珍棒といったり珍宝といったりするのと同じだろう。


「大阪遊郭案内」では、

『大門を入ると中央の通りを中心に縦横街は幾筋となく整然と別れて、和洋折衷の貸座敷がずらりと並んで居る。店は全部写真店で、陰店は張って無い。揚屋や引手茶屋も無く、客は直接貸し座敷へ登楼するのだ・・』

と、当時の様子を記録している。


揚屋(あげや)や引き手茶屋というのは、はるか昔からある遊郭の制度の1種で、揚屋は、客が遊女と遊ぶ場所である。客は揚屋に入り、遊女を指名する(指名すべき遊女は置屋に居て、揚屋には居ない)。指名された遊女を置屋から派遣させるために揚屋は小坊主を連絡員として走らせるのだ。

茶屋というのは揚屋よりもグレードの劣る店である。遊女を呼ぶ場所は、揚屋・茶屋・呼屋の3つのグレードがあったのだ。

揚屋=プレイルーム兼フロント、置屋=CP待機場所
揚屋=高級店・茶屋=大衆店・呼屋=格安店てところか。
現在でいうところのデリヘルみたいなもんである。

茶屋は、本来は揚屋へ客を案内する役目を持っていたのだが、時代とともに茶屋でも遊べるようになり、揚屋は衰退していくこととなる。この描写をした人物における引手茶屋の認識は、まだ初期のもので、登楼する客の喉を潤し、案内する役目を担った茶屋を指していると推測される。

もっとも、これは飛田に関してのことであり、例えば吉原遊郭では揚屋・茶屋の制度はもっと格式ばっており、揚屋では「初会」「裏」「馴染み」と、3回通って花代も出してやっとセックスすることが出来たという。

登楼とは、揚屋に入ることである。現代でいえば入店ってとこか。陰店、写真店ともに以下説明とする。
(*写真店=写真見世・陰店=陰見世の誤字であると思われる。)

「写真見世」というのは、玄関を入ったところに遊女の写真をかかげて選ばせるというものである。陰見世というのは店の奥で遊女の顔を見せるという方法である。

一般的であった「顔見世」というのは現在行われているのと同じ、玄関先に座って娼が顔を見せることである。(顔見世のことを当時は「張見世」と呼んだ。18時から20時まで、など時間制限付きで顔見世をするのが一般的であったという。張見世自体は大正5年に禁止される。通りに面したところに商品のように陳列するのは人権上好ましくないという配慮から禁止された)。

写真見世=日本全国にある写真指名
張見世=名古屋のマジックミラー
陰見世=中洲の顔見せ

てなところか

飛田の運営方法は、従来の基本スタイルであった、置屋から娼を派遣する「送り込み制」ではなく、店の中に娼がいる「居稼ぎ制」であった。また、「顔見世」は行わずに、玄関で写真を掲げる「写真見世」を取っていた。
写真見世は、客の回転を良くする・そのつど遊女を準備させる必要がない・在籍する遊女は、接客中や休み中の有無に関わらず全て客に見せることが出来る・ベストな遊女の顔を常に客に見せることが出来る・・といったメリットがあったと推測される。
古くからの格式にとらわれることなく、手軽に遊べる・・という2点の仕組みを積極導入したことが、これまで遊女屋の高い敷居を跨ぐ事が出来なかった層、経済的理由から通うことが出来なかった層をも取り込むことに成功し、結果、繁栄への道を進んでいったのではなかろうか。


また、 『和洋折衷の貸座敷がずらりと並んで居る』といった記録からもわかるように、日本風の建物だけでなく、ステンドグラスのようなタイル張りのカフェー調の貸座敷、ダンスホールを持つ貸座敷もあった。

プレイ方式だけではなく、建物も、時代の最先端を行くものであったと想像できる。

まとめると、

●茶屋や揚屋という、当時主流だった、客にとっては煩わしいシステムを排除し、ポッキリ価格で確実にセックスできるという画期的なシステムを導入した。

●それに伴い、今まで遊郭には縁の無かった小心者層・非富裕層を取り込むことに成功した

●経営側は、置屋制度を取らずに、店内に女を常駐させるという現在の風俗店に近い仕組みを採用した。

●顔見世を行わず、写真見世を導入した。

●上記2点は、単純明快でロスの少ないオペレーションフローを実現した(いや、たぶんね)。

●建物は、当時の日本の最先端を行くデザインであった。


こうして、飛田新地は繁栄の道を辿って行った。






第二次大戦〜戦後〜現在

1945年(S20年)3月の大阪大空襲で大門から南側の全体の3分の2が消失する。北東部分のみが焼け残った(松島新地はこの空襲で全焼。今里新地は無傷で焼け残る)。1946年(S21年)1月にはGHQの命令で日本中で公娼制度が廃止となる。

1200年の歴史を持つ『遊郭文化』が日本の表舞台から消えた瞬間である。

この際、飛田も他の遊郭と共に消え去った・・・かに見えた。

しかし、遊女屋は貸座敷や特殊喫茶に、遊女は女中や給仕と名前を変えただけで、歴史の裏舞台では確実に、したたかに生き残ったのである。

*貸座敷という名称自体は以前からあり、明治以降の公文書での使用名称である。江戸時代までは遊女屋と呼ばれた(遊女屋のグレードによって、揚屋・茶屋などと呼び方が変わる。もっとも、茶屋は料理茶屋、出合茶屋など、さらに細分化され、遊女屋や斡旋の機能を持たないものもあった)。この茶屋の歴史は東海道53次まで遡り、なかなか面白いのだが、紙幅の都合で割愛する。

さて、この貸座敷や特殊喫茶は、「客は自由恋愛の上、店に勤務する給仕や仲居を抱く」という解釈である。やっていることはなんら変わらないのであるが、これらの営業に対して意外(?)にも政府の判断は柔軟であった。 このときの政府の言い分は、『社会上やむを得ぬ悪として生ずるこの種の行為については、特殊飲食店を指定して警察を特別の取り締まりに付かせ、かつ同店は風致上支障の無い地域に限定して集団的に認める』というものであったのだ。

簡単に言うと、『自由恋愛といったヤヤコシイ理由など要らない。赤い線の内側ではセックスを認める』ということ。これは政府も認めた、合法売春と言っても差し支えなかろう。

同年、警察当局は、貸座敷や特殊喫茶を特殊飲食店という呼称でまとめ、地図上で指定した地域(=遊郭跡地)をつくり、片っ端から赤鉛筆で囲っていった。これが赤線の語源である。なお、当局から指定を受けていない地域は青い線で囲まれた。これが青線の語源である。飛田は指定を受けていたので赤線である。

昭和27年には貸座敷150件、娼1500人まで回復。

だが、1958年(S32年)「売春防止法」が施行される。今度は政府も全面禁止せざるを得なかった。ついに『赤い線の内側でも、どこであろうと売春行為はダメだ』との判断を下したのだ。

戦後の合法売春はあっけなく、わずか12年で幕を閉じる。飛田でも表向きは特殊飲食店は全て廃業したことになっているが、飛田の業者は料亭の届けを出し、それは認可され、現在に至っている。そして、これまで通り、そこではセックスが行われているのだ。

結局のところ、現在の飛田はどういう許可を取ってセックスが出来る状況を作り出しているのか?日本国では性風俗特殊営業1号営業(ソープランド)以外に合法的(厳密に言うとソープも合法とは言えないが)に買春できる施設は無いはずである。

答えは、こう。

飛田には料亭が沢山あり、そこでアルバイトで働く女は、やってきた客と恋に落ち、店の中でセックスまでしてしまった。

売春ではない。これは自由恋愛の末のセックスなのである。

では、金銭の授受が発生しているが、それでも売春ではないのか?

売防法における売春の定義は、『対賞を受け、または受ける約束で不特定の相手方と性交すること』となっている。

飛田新地における金銭のやり取りに関する答えは、こう。

・対価は「花代」であり、セックスに対するものではない(セックスはあくまで突発的に起こったもので、あらかじめ予期されたものではない)

・不特定多数ではなく、店で働く女性に心引かれた熱心な一人の客に、女性の側も心を引かれだけであり、相手は特定されている。

ただの屁理屈です。ハイ。でも世の中これで動いているのです。私も異存はありません(笑)。



また、取締りを行う側も、ハナから徹底して取締りを行うつもりはなかったようだ。「あまり厳格に取り締まるとかえって風紀が乱れるという判断も当局側にあったようです」(風俗評論家・広岡敬一氏/日本風俗業大全より)という見方もある。あるいは、やはり黒い金が動いているのか・・。

余談だが、風俗営業許可に関する当局のマニュアル返答は「通報があれば取り締まります」である(笑)。そう、黙認している訳ではないのだ。





堺筋側入り口




南側入り口




大門の跡




門跡全景。門は東西南北にあったとされるが、出入りできるのは、ここ西の大門だけだったという




大門から続く壁の跡。高さ5Mほどある。かつては「嘆きの壁」と呼ばれたそうな。『遊郭の周囲はコンクリートの高塀で囲われており、通常は一カ所の大門のみが開くという、文字どおりの廓(くるわ)の再現』(『新修大阪市史』)。92年の阿倍野再開発までは壁は200Mほど残っていた。現在は西の方にその1部だけが残っている。設立当初はレンガ造りの壁であったとされる。
航空写真で見ると、その境目がはっきりと見て取れる



東の出入り口、通用門跡




当時のものではないが、境界線を感じさせるノリ面




250m四方のなかに150件程度の店がある。写真の「鯛よし百番」は平成11年に「文化建造物指定」に登録された。
中身詳細はこちら「建築マップ」が詳しい。ここではその他、カフェー調の店の写真も紹介されています。建物に興味のある人は赤線跡を歩く―消えゆく夢の街を訪ねて (Bibliotheca Nocturna)がお勧め



低年齢の女が居るとされる店が並ぶ通り





飛田新地捜査ファイル:こちら



文:O大学の「本学周辺における日本文化の諸相」でなんとか単位奪取に成功した秘密捜査官もるだ 作成050901修正060625 追記091230:間違った解釈をしている部分もありますが、後から修正するのもアレなので、そのままにしています・・。

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